物質的恍惚  ル・クレジオのテクストによる

分かちがたく結ばれた二羽の鳥が、
同じ木に住まっている。
一羽は甘い木の実を食べ、
もう一羽は友を眺めつつ
食べようとしない。
        ムンダカ・ウパニシャッド
 だが、この世界は過去のものではない。この現実は、ぼくが生まれていなかったとき通用していた現実なのだ。この沈黙は遠いものではない。この空虚は無縁のものではない。ぼくがそこでは不可能だった大地は、なおも続いている。それこそは、ぼくが手で触れているものであり、そして突如としてゼロから現出したこの物質(マチエール)はぼくの躰とぼくの精神とを形作っている材質(マチエール)なのだ。

 騒擾の中、起こることの無定形な絡み合いの中にあって、闘うのをやめるときだ。ここには、理解すべきものはもはや何一つない。憎むべきものはもはや何一つない。火の球の数々はすれ違い、交叉し合い、星雲はいちめんに拡がり、光の聚落の数々はめくるめくスピードで未知の一点を逃れてゆくように見える。ここには、憎むべきものはもはや何一つない。命名すべきものはもはや何一つない。有用、無用の稲妻がくまなく走るこの夜はその戯れを戯れている最中である。これらの力は対決し合い、何千億もの世紀を載せたこれらの時の断面はゆっくりと覆ってゆく。これらの矢は空間の奥底にまで跳躍し、希望と絶望の限界をぶち破り、と思うまにもう未知なるものの中には入ってしまっている。もぐもぐ吐いたりするすべきことはもはや何一つない。消え失せねばならなぬ。

 ぼくが生まれていなかったとき、ぼくがまだぼくの生命の円環を閉じ終えていず、やがて消しえなくなるものがまだ刻印されはじめていなかったとき。ぼくが存在するいかなるもにも属していなかったとき、ぼくが孕まれてさえいず、考えうるものでもなかったとき。ぼくが過去のものでもなく、現在のものでもなく、とりわけ未来のものではなかったとき。ぼくが存在することができなかったとき。眼にもとまらぬ細部、種子の中に混じり合った種子、ほんの些細なことで道から逸らされてしまうに足りる単なる可能性だったとき。ぼくか、それとも他者たち。男か、女か、それとも馬、それとも樅の木、それとも金色の葡萄状球菌。ぼくが無でさえなかった——なぜならぼくは何ものかの否定形ではなかったのだから——とき、一つの不在でもなく、一つの想像でもなかったとき。

 ゆっくりと、伸び伸びと、力強く、無縁の生命はその凸部を膨らませて、空間を満たしていた。まるで烈火の先端で燃える焔のように、だがそれはけっして同じ焔であることがなく、在るべき所のものは即座に、かつ完全無欠に在るのだった。存在の数々は生まれ、そして消えていった。絶えず分割され、空虚を満たし、時を満たし、味わい、そして味わわれていた。何百万もの眼、何百万もの口、何百万もの神経、触覚、大顎、触手、偽足、眉毛、吸盤、触知管が世界中にひらかれて、物質の甘美な発散物の入ってくるにまかせていた。いたるところにあるのはただ、戦慄、波動、振動の数々だけ。だかそれでも、ぼくにとっては、それは沈黙であり、不動であり、夜だった。麻酔だった。なぜならぼくの真実が住まっていたのは、このはかない伝達の中にではなかったからだ。この光の中、この夜の中にではなく、生命に向かって顕現されていた何ものでもなかったからだ、他者たちの生命は、ぼくの生命と同様、瞬間の数々に過ぎなかった。世界をそれに返す力のない、束の間の瞬間の数々に過ぎなかった。世界はその手前にあり、包みこむもの、現実のものだし、些細なものにあたって溶け去るとらえがたい堅固さ、感覚することの不可能な、愛したり理解することの不可能な物質、充溢した永い物質であって、その正当性は外的なものではなく、内的なものでもなくて、それ自身なのだった。

 ぼくの外側にある世界、ぼくが覆すことはけっしてできまい世界、まるで巨大な縁日さながらに。夜、コンクリートでできた宮殿の穹隆の下で、ネオンの冷たい光りの数々は独立しているひらいいた口が隠れている土地の一片一片から混沌としたわめき声が立ち昇ってきて、反響し合い、また撥ねかえり、また干渉しあう。・・・もうすでに、観客でいることはできなくなっている。この黒さの中、この白さの中、すべてが混じり合い、すべてが滑り込み、すべてが交叉するそこでは、もはや選択し区別することはできない。住処とする領域のほうへと流れてゆかねばならず、理屈をこねも話しもしない怪物にこうやって呑み込まれるがままにせねばならぬ。自分の皮膚、魂、国語を棄て、そしてまだ生まれていない者にふたたびならねばならぬ。

 この呪いには打ち勝ちえない。それは生命よりも強いのだ。生きた細片の一つ一つの裏側には、じつに広大な砂漠と放棄とがあって、それらを忘れ去ることは不可能である。それはまるで夢の思い出のようなのだが、それを生み出した夜は終わってはいない。

1975年 鉛筆画

 たしか73年頃ル・クレジオの物質的恍惚が翻訳され、この頃ためつがえす読んでいた。美大卒業後暫くして私は、版画を勉強するため創形美術学校に入り、そこでの課題を契機にこの習作を始める。挿し絵というつもりではなかった。気に残る言葉どもを定着するのに、現実の物質<描写>ではなく、より心身の高まりに任せる方法に執着していた。硬質の紙に2B以下の鉛筆。その感触が作業上の快感であった。
 この習作を持って沖積舎の沖山氏と共に、習志野台の荒丘の上に建つ鶴岡善久宅を訪ねた。まだ駆け出しにもなっていない私を両氏は快く受け入れ、辛抱してくれた。その結果が詩画集「夢祭り」である。
 今、クレジオの物質的恍惚は手元にない。